トヨタ自動車の名誉会長で2月14日に97歳で亡くなった豊田章一郎氏のお別れの会が24日、東京・ホテルニューオータニなどで開かれた。
東京会場と名古屋・豊田市の3会場で同時に行われ、トヨタグループ17社合同の「お別れの会」とし、喪主でお別れの会委員長は、故人の長男である豊田章男トヨタ自動車会長が務めた。
東京会場では六部構成となり、自動車業界関係者から政財界や海外からも多くの人が参列し、故人との別れを惜しんだ。
故豊田章一郎氏は、トヨタ創業家の嫡男として1925年に生まれた。祖父の豊田自動織機の始祖、豊田佐吉翁と父のトヨタ自動車の創始者、豊田喜一郎氏の「現地現物で人は学び、人は育つ」の精神を受け継ぎ、これを信条とした。
当時のトヨタ自動車工業に1952年入社し、エンジン研究・開発からスタートし、若くして元町工場建設の責任者に抜擢され、近代的工場操業への音頭を取った。
そして、1982年に戦後のトヨタ大争議による工販分離から年月を経てようやく合併し「トヨタ自動車」のスタートとともに豊田章一郎社長が誕生する。
筆者は当時、現役記者として取材していたが、工販合併の章一郎トヨタ自動車社長が「我々は、今日から新しいトヨタの歴史を創り上げていくわけであります。『研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし』という創業以来の創造と進取の精神を全員が改めて思い起こし、新しい発想と柔軟な思考で新生トヨタの歴史を創り出していきたい」と挨拶したのを思い起こす。
トヨタ自動車社長として6代目だが、工販合併の初代社長としてトヨタを引っ張った章一郎体制は1992年まで約10年間で「三河の田舎企業」からトヨタグローバル化の基盤を固め、押しも押されぬ日本を代表する「ものづくり企業」に確立させたのだ。
豊田章一郎氏は1992年にはトヨタ初の経団連会長も務め、「財界総理」として日本経済界リーダー役も務め上げた。また、筆者は豊田章一郎氏とは何度もインタビューしているが、一番の思い出は章一郎氏が情熱を込めて提唱していたのが「日本自動車会館構想」だった。
筆者に章一郎氏が語ったのは、父の喜一郎氏が幼い頃に東京・丸の内にあった岸本ビルへ連れて行ってもらったが、そこは自動車業界関係者が集うサロンのようなものだった。是非ともこのような「日本自動車会館」を建設したいというものだった。
筆者は、この豊田章一郎氏の「日本自動車会館構想」を初記事掲載したが、2004年に「日本自動車会館」が開設された。表玄関には章一郎氏が揮毫(きごう)した「日本自動車会館」の碑が建てられている。合掌。