シュトゥットガルト近くのシュロス・ソリチュード城の前で、ポルシェ928 S4( My.1992 )に乗るハラルド ワーグナー氏
ポルシェAGは4月1日、長年セールスディレクターを務めた同社執行委員会・元特別代表のハラルド・ワグナー( Herald Wagner )博士の逝去を悼むリリースを報じた。死去は同日から遡る事10日前の3月20日・享年99歳。( 坂上 賢治 )
同氏は1923年8月28日、シュトゥットガルトで5人弟妹の長男として誕生。母親はドロテア・ポルシェの妹のニー・ライツ。
1950年9月7日、グロースグロックナーでのフェルディナンド・ポルシェ教授とハラルド・ワーグナー
彼は若干13歳( 1936年 )の時、オーストリア最高峰( 標高3798メートル )グロースグロックナーの鞍部を越えていく山岳道路で、フェルディナンド・ポルシェ教授がステアリングを握るフォルクスワーゲンビートル・プロトタイプの助手席に座っていた。
その後ワーグナー氏は従軍中の1945年・夏、ロシアの捕虜収容所から独バーデンヴュルテンベルク州エーリンゲンに逃亡。そこで彼は自動車販売店で見習いとして働き始める。
1963年、ポルシェ356Bカブリオレをパトカーとして引き渡すフェリー・ポルシェ。右から3番目がハラルド・ワグナー
更に11年を経た1954年1月、ポルシェの国内販売責任者の補佐役として訓練を受け、やがて独国内のポルシェ販売を担うセールスディレクターとなった。以来、ディーラー ネットワークの構築で活躍。34年間後の1988年に現役から退いた。
そんなワグナー氏はかつて引退前、バーデンヴュルテンベルク州の州都ツッフェンハウゼンで、顧客達が真新しいポルシェを受け取る際の喜びの様子を懐かしく思い出し、当時の様子を語っている。
1973年のハラルド・ワーグナー( 写真右端 )とヘルベルト・フォン・カラヤン、リチャード・フォン・フランケンベルクとエルンスト・フールマン( 写真右端 )
例えば1980年代に、社交界のアイコンとなったグロリア・オブ・トゥールン・アンド・タクシス。またザルツブルク公国生まれの指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンなどの各界のスター達が、911を初めて手にした際、彼は車両を引き渡すセレモニーのプレゼンター役を演じた。
また彼は、911シリーズで初の脱着式ルーフを持つタルガトップモデルの命名にもひと役買っている。世界初のタルガは1965年9月のIAA(フランクフルト)で披露された。
当時はカブリオレでもなくクーペでもない。安全性に拘った固定式ロールオーバーバーを備えたカブリオレをボルシェが「ダルガ」と名付けたとされる。
1974年、911カレラ2.7クーペを顧客へ配送するハラルド・ワグナー
それはアメリカ市場で求められた当時の新たな安全基準(ロールオーバー時の対策)をクリアするべく、ポルシェが打ち出した新たな回答だった。
この新型車に特別な名前を付ける時、ワグナー氏はポルシェ車が1950年代から活躍し続けて来たクローズドレース「タルガ フローリオ( Targa Florio / シチリア )」に着目。
当初は、これにあやかり「911フローリ( Flori )」などの案が生まれたのだが、この際の議論でワーグナー氏は「単刀直入にタルガと呼ぶのはどうか?」と提案。これが採用されてタルガは、911に無くてはならない伝統の車種カテゴリを指すネーミングとして定着した。
ちなみに英語のナンバープレート( Number plates )は、イタリア語でヌメリ・ディ・タルガ( Numeri di targa )と呼ばれており、タルガモデルがキャビン後半を被う特徴的なプレートをもつ事も命名を決める際の一助のひとつになったともされている。なおポルシェは1965年8月にタルガの特許申請を行い、1960年代の米国のセールス市場に於いて大成功を収めた。