日本の首都・東京が、初回オリンピック(第18回・夏期オリンピック競技大会)の開催地となったのは1964(昭和39)年。
その開催期間は10月10日(後の体育の日)から10月24日までの15日間で、アジア地域で初開催のオリンピックであったこと。アジアやアフリカにおける植民地の独立が相次いだことなどで同大会は過去最高の出場国数を記録するなど大変華々しいものとなった。
一方、この頃の日本は戦後の経済成長の最盛期に突入。エネルギーの主役が石炭から石油へと移行するなかで社会インフラの整備が急ピッチで加速。これに合わせて日本の生活習慣も大きく変化した時期でもあった。
そんな1960年代の10年間は国内外からの旺盛な新規投資によって、東京の景観が徐々に変化しつつあった頃でもある。それゆえにビジネスとエンターテインメントの中心地に位置付けられていた銀座は、新たな流行や商品を日本全国の隅々まで紹介するための「披露の場」であり、人とモノの「交流の場」としても飛躍の時を迎えていた。
当時の日産自動車は、その勢いに乗ろうと独自のショールームを銀座の中心地にオープンさせた。そんな当時の日産の様子を、その頃、宣伝課長を担っていた杖下孝之氏はよく覚えているという。
杖下氏は「三愛ビルの2階と3階にギャラリーを作りました。当時の銀座というのは、東京が日本の中心であって、その東京の中心が銀座ですから、銀座からすべての文化やファッションなど色々なものが拡がっていくところでした。
それで日産自動車としても一流の企業として、そこにドーンとショールームを構えることにしたわけです」と当時を懐かしく振り返る。
そんな華やかな場所にお客さまを迎えるため、美しいショールーム・アテンダントを起用する案が持ち上がり、その彼女たちに対して商品説明などの特別なトレーニングを求めるアイディアが生まれたのも、その時だったと語っている。
第1期生として5名の日産「ミス・フェアレディ」が選出
新たなショールーム・アテンダントを養成するコンセプト作りを経た後、銀座のショールームに相応しい女性を求めて採用試験が行われ、数回の面接の末に第1期生として5名の日産「ミス・フェアレディ」が選出された。
ちなみに日産には、こうした彼女たちを生み出す源流を過去に持っていた。それは日産自動車にとって格好の先例であったのだが、それがかつて1930年代に日産車の紹介をするために採用された「ダットサン・デモンストレーター」の女性たちであった。
杖下氏は「日産の当時の宣伝担当課長が『折角ショールームがあるんだから、そこで新たなデモンストレーターがお客さんに接して説明をして、良いイメージを与えよう』と企画したのです」と語る。
ただ新たに銀座に配置する女性たちであるゆえ、もちろん今回は「ダットサン・デモンストレーター」というわけにはいかない。そこで1962年に発表された日産製スポーツカーのダットサン・フェアレディ1500にちなんだ名前が新命名された。この「フェアレディ」という名前は当時大人気だったブロードウェイミュージカルを意識して命名されたものだったという。
厳しい選考を潜り抜けて選ばれた第1期のミス・フェアレディたちは、イベントや宣伝広告に登場し始め、一躍、日産のプロモーション活動にとって彼女たちが欠かせない存在となっていった。
当時のミス・フェアレディは、新商品の発表やイベントへと頻繁に販売店などへ赴くだけに留まらず、日産がスポンサーを務めていたゴルフトーナメント会場に登場することさえあったほどだ。
また当時の彼女たちにとっても接客の仕事は、事務職よりも待遇がよく、かつては会社のクルマを貸与されるなどさまざまな特典もあったという。
世代を超えて引き継がれていくミス・フェアレディ
そんな1970年代初期にミス・フェアレディとして活躍した日向野順子さんは、「ミス・フェアレディ」は本当に出番が多く、契約期間の1年間がとても多忙だったことを覚えているという。順子さんは当日の様子について「私たちは1年間だけの契約でしたので、(あちこちに出張で出かけていると)毎日が目まぐるしく過ぎていきました。
地方の販売店さんで新しい車が展示された際には、その説明に、と借り出されました。大阪、福岡、岡山とさまざまな所に行かされたのを覚えています」と話す。
そして順子さんは、ミス・フェアレディの契約満了後、やがて結婚して新しい家族ができた。その後、何十年かのを時を経て今度は娘の温代さんが、母親と同じ道を進むことを決意した。この時、順子さんは、娘の決断を後押したが、すぐにその仕事が自分の経験したものから大きく進化していたことを知ったという。
順子さんは、「もちろん、あそこ(ミス・フェアレディ)に受かって、指導していただければ、もうそれ以上のことはないですからね。
なので、(採用は)無理かもしれないけど一度受けてみれば?ということで応募させました。しかし私たちの時代よりも今は、さらに多くの知識を得る必要があると感じています。子供が今やっている内容のほうがより大変そうですし、『仕事』って感じがしますね」と畳み掛けている。
実際、ミス・フェアレディとして備えるべき資質を伝える厳しいトレーニングに加え、東京モーターショーや株主総会のような特別なイベントの舞台に立つことも、仕事の日課に加わっている。
順子さんの娘の日向野温代さんは、去年まで横浜の本社に勤務していたが、商品に対する知識は、自分の努力だけで身につくことではないことを学んだという。
温代さんは「着任1年目の時にGT-Rが復活したのですが、1年目というのは勉強はしていても、そこまでクルマについて詳しくない時期ですので、そんな時に、こんなに存在感の大きなクルマが出てしまったので知識を詰め込むのに本当に大変な1年間でした。
GT-Rについては、お客さまのほうが詳しい場合も多く、お客さまからも色々な情報を得て、お客さまからも学ばせていただきました」と当時を振り返っている。
ミス・フェアレディも時代を超えて変化していく
時代を経る毎に女性の昇進の限界が変化していく日本企業が数多く登場する中で、「ミス・フェアレディ」のプログラムも進化を重ね、女性がチーフとしてマネジメントとしての役割を発揮するようになっていく。
現在入社5年目になる青島祐子さんは、東京と横浜エリアの「ミス・フェアレディ」チーフとして務めている。祐子さんは「新卒で入社してたくさんの事を学びました。たとえば立ち居振る舞い、話し方、礼儀、接遇も含めてしっかりと基礎から学びました。
これからの仕事というよりも人間としての糧になっていくのではないかなと思います。どんな職業にしても今後に活きてくると思います」と語っている。
一方、山尾百合子さんは、現在のトレーニング・プログラムを提供する会社の代表であり、元「ミス・フェアレディ」だ。百合子さんは、提供してする同プログラムが、その後のキャリアに大きく生きることを知っている。百合子さんは「こちらでは、本当に高いレベルの教育システムを受けさせて頂いています。
ここを“卒業”したミスのOGたちは、アナウンサーになったり、いわるゆるプレゼンテーション力を活かした職業、女優さんだったり、タレントさんだったり、もちろん専業主婦だったり、色々なところで活躍されています。
比較的プレゼンテーション力を活かしたお仕事で、活躍している方が多いですね。起業家も多いです。私も含めて」と話してくれた。
銀座に日産のギャラリーが出来てから50年経つ現在、累積1,000人以上の女性がミス・フェアレディの制服を纏ってきた。ミス・フェアレディは、もはや日産にとって、その時々の時代の要請に応えつつ新たな役割を与えられ、次々と育まれてきたスキルが代々受け継がれていく。しかしそんな中でも、ひとつだけ変わっていないものがある。
それは「ミス・フェアレディ」という存在が単なる綺麗なだけの飾りものではない、ということだ。(著述参考:ミス・フェアレディの誕生と伝統)