昭和に創業した最後の自動車メーカー
企業規模の拡大が目標ではない。夢のあるクルマづくりを求めて
時代が昭和から平成へと向かう時期。大手自動車メーカー達が安定した経営を続けるなかで光岡自動車は誕生した。そんな同社も来年2月に満50年を迎える。自動車業界でオンリーワンの存在を目指すとする『ミツオカ事業』の本質について同社会長の光岡進氏に訊いた。(聞き手<NEXT MOBILITY編集長>:坂上賢治)
光岡 進氏(プロフィール)
1939年、富山県生まれ。県立富山工業高等学校を卒業後、販社を経て光岡自動車を創業。以降、旧来の名車を連想させる「ビュート」で知名度を獲得。1996年、日本で10番目の乗用車メーカーの認可を取得した。1996年にアッパーミドルセダン「ガリュー(我流)」を。2006年にスーパーカー「大蛇(オロチ)」、2008年にオープンロードスター「ヒミコ(卑弥呼)」などを相次いで発表。今年2017年11月にRJC(日本自動車研究者・ジャーナリスト会議)のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選出された。
自動車メーカー誕生の鍵となったオリジナル車は、ビュート開発前に完成していた
——貴社への初取材から25年余り、ここで改めて創業の背景を訊きたい。
光岡 中学生の頃、英MGに憧れた私は地元の高校を卒業後、日野自動車の新車営業でクルマ人生のスタートを切った。
その後、会社の事業転換で販売車種が乗用車から貨物車へと移った昭和43(1968)年の2月。近隣の農家の馬小屋を借り、板金整備工場の経営者として自らのビジネスを始めた。28歳だった。
当時は、サニーやカローラが注目され始め、モータリゼーションが伸び盛りの時代。立ち上げた「光岡自動車工業」も半年位で欲しい設備が買える迄になった。その頃、東京・環状8号線沿線では多くの中古車販売店が立ち並び、これに倣って翌々(1970)年の5月、富山に自動車販売店の「カーショップ光岡」を開いた。
——自動車ブランドで特にジャガーをリスペクトする理由は、その事業背景にあると聞いているが。
光岡 事業拡大で視察目的の海外訪問が行える位になった頃、海外進出を考え始めた。当時の日本では、豪州地域から日本への車両買付観光が流行していたから、ニュージーランドにも訪問した。
その際、当地の博物館でジャガーの歴史が綴られた書物を手に取った。ジャガーは1922年、イングランド北部沿岸のブラックプールで、スワロー・サイドカー社という名前で会社を興すも、社名の重複で英国企業に訴えられ、1935年新に社名としてジャガーを選択したと聞く。
つまり同社は当初2輪車の側車事業から自動車ビジネスに発展していった訳だが、その沿革が当時の私の心を捉えた。またこれが後にオリジナル車の「ゼロワン」を生み出す原動力になり、ゼロワンによって弊社が後々、日本で10番目の乗用車メーカーと呼ばれる原点となった。