浜松市に本社を置くスズキの相談役、鈴木修氏( すずき・おさむ )が12月25日( 午後3時53分 )に悪性リンパ腫のため浜松市の病院で逝去した( 同社27日発表 / 享年94才 )。葬儀は、長男で社長の俊宏氏( としひろ )を喪主とし近親者で済ませた。後日、お別れの会を行うとしているが、具体的な日取りなどは未定だ。
鈴木修氏は、2015年に社長職を俊宏氏に譲った後も、会長としてスズキの将来戦略では陣頭指揮を執り続けた。最終的に会長職を退任し、相談役となったのは2021年6月。経営の第一線から退いた後も財界のみならず、政治や文化などの方面で精力的に活動を続けていた。
また一貫して自らを「中小企業のおやじ」と称し、自社ブランド車を取り扱う個々の販売会社にも足繁く通い、現場の声を真摯に聞くその姿勢から、経営者の夫人達からの絶大な信頼を獲得。その気さくな人柄でファンも多かった。
そんな鈴木修氏は、1930年・岐阜県益田郡下呂町( 現・下呂市 )で生まれ、中央大学卒から銀行勤務を経て、2代目社長の鈴木俊三氏の娘婿となった1958年に鈴木自動車工業に入社。1963年に取締役、1967年に常務、1973年に専務を経て1978年に( 前身の鈴木自動車工業 )社長に就任した。
その翌年、1979年に当時としても破格( 当時の軽乗用車価格は60万円台が一般的 )の47万円の新型軽自動車アルトを開発・発表。その後、同戦略に競合メーカーも追従し、日本国内に於ける軽ボンネットバンブームを主導した。更に1993年には、トールボディのワゴンRを発表、現在に至る軽ミニバン時代も牽引した。なお2000年に一旦、会長職になったのだが突発的な経営陣の交替があって、2008年には再び社長を兼務した。
この間、生涯を通して現場にこだわるリーダーシップを発揮。クルマづくりも、会社経営も、徹底してムダを省く戦術を実践。こうしたコスト削減の取り組みは、後に「小・少・軽・短・美」という行動理念を生み、スズキを大きく飛躍させる原動力となった。
結果、社長就任時に売上高3232億円だったスズキを40年間にわたって経営を主導。日本国内の軽自動車メーカーを代表する地位を固めただけなく、1983年には日本メーカーとしては唯一、インド進出のチャンスを掴み販売シェアトップ(占有率・約4割超)を獲得、自動車メーカーとして世界的有数の3兆円企業へと育て上げ、2024年3月期の連結売上高は5兆円を超えている。
国際的な企業連携では、米ゼネラルモーターズや独フォルクスワーゲンとの提携・提携解消などを経て晩年、トヨタ自動車との連携を深めた。2017年にトヨタ自動車と業務提携を発表。その2019年には資本提携にまで発展させて電動化への対応などの道筋を敷いた。
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略歴(敬称略)
氏名:鈴木修(すずき おさむ)
生年月日:昭和5(1930)年1月30日
現住所:静岡県浜松市(出身:岐阜県)
最終学歴:昭和28(1953)年3月:中央大学 法学部 卒業
職歴
昭和33(1958)年4月:鈴木自動車工業株式会社入社
昭和38(1963)年11月:同社 取締役 就任
昭和42(1967)年12月:同社 常務取締役 就任
昭和48(1973)年11月:同社 専務取締役 就任
昭和53(1978)年6月:同社 取締役社長 就任
平成2(1990)年10月:スズキ株式会社に社名変更
平成12(2000)年6月:同社 取締役会長 就任
平成20(2008)年12月:同社 取締役社長兼務
平成27(2016)年6月:同社 取締役会長 就任
令和3(2021)年6月:同社 相談役 就任
賞罰
昭和60(1985)年3月:スターラ・イ・パキスタン章 受章
昭和62(1987)年11月:藍綬褒章 受章
平成5(1993)年5月:ハンガリー中十字勲章 受章
平成12(2000)年5月:勲二等旭日重光章 受章
平成14(2002)年11月:日本自動車殿堂入
平成16(2004)年5月:ハンガリー星付中十字勲章 受章
平成19(2007)年3月:インド パドマ・ブーシャン勲章 受章
令和2(2020)年3月:ハンガリー大十字功労勲章 受章