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2023年7月26日【トピックス】

ホンダの故・藤澤武夫氏、米国自動車殿堂入りで授賞式

NEXT MOBILITY編集部

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本田技研工業(ホンダ)は7月26日、米国自動車殿堂(Automotive Hall of Fame/所在地:米国ミシガン州ディアボーン市/※1)に選出・殿堂入りした同社創業者の一人であり最高顧問を務めた故・藤澤武夫氏の授賞式典が米国ミシガン州デトロイト市で、20日(※2)に開催。式典に登壇した取締役会長の倉石誠司のスピーチ概要と、藤澤氏の功績について紹介した。

 

1989年、本田宗一郎氏の日本人初の米国自動車殿堂入りから30有余年。営業や財務、マーケティングといった事業領域を一手に担い、引退するまでの約25年間、本田氏と二人三脚でホンダを率いた藤澤氏の米国自動車殿堂への選出により、ホンダでは、創業者2人が揃って殿堂入りを果たすこととなった。

 

<藤澤武夫氏の略歴>

・1910年11月10日東京都生まれ。
・1949年10月:本田技研工業株式会社 常務取締役として入社。
・1952年4月:同社 専務取締役。
・1964年4月:同社 取締役副社長。
・1973年10月:同社 取締役副社長を退任、取締役最高顧問 就任。
・1983年10月:同社 取締役を退任、最高顧問。
・1988年12月30日:死去(享年78歳)。

ホンダ・ロゴ

[ホンダ取締役会長 倉石誠司氏のスピーチ概要]

 

1959年にホンダがアメリカン・ホンダモーターを設立した際、藤澤武夫は独立した販売ネットワークを構築することにこだわりました。当時、ほとんどの日本企業は代理店を通じて製品を販売していました。しかし藤澤武夫は、お客様と独自の関係を築きたいと考えていました。

 

これが私たちホンダの成功の鍵でした。米国でビジネスを始めると決めて以来、ホンダは顧客、ビジネスパートナー、ホンダの従業員、そして彼らが住み、働いている多くのコミュニティーと特別な関係を築いてきました。ホンダを受け入れてくださった米国の皆様に感謝いたします。

 

藤澤武夫は自動車大国である米国で成功することを夢見ていました。彼は今回の米国自動車殿堂入りをとても喜んでいると思います。そして私たちホンダ全てのメンバーが大変光栄に思っています。

 

藤澤武夫の精神とビジョンはホンダを導き続けています。米国でのホンダのビジネスはHonda50(※3)から始まりましたが、彼のビジョンにより、その活動はホンダジェット(HondaJet)を含むさまざまな新たなモビリティへと続いています。

 

 

※1:1939年、自動車産業に貢献した人々の功績を称え、永続することを目的に設立。
※2:米国現地時間。

※3:スーパーカブの当時の米国での販売名。高馬力で高い走行性能、小さくて取り回しが良く、4ストロークエンジンの採用による静粛性が特長。フロントカバーと幅広いステップを持つデザインにより、スカートをはいた女性でも気軽に乗れる点をアピールし、当時米国で悪いイメージを持たれていた「モーターサイクル」とは全く別の大衆の乗り物という印象を与えたこと、リーズナブルな価格設定により学生からも人気を得たことで、大ヒット商品となった。

 

ホンダは、藤澤氏の米国自動車殿堂入りに際し、同氏の功績を、公式ホームページの「語り継ぎたいこと ~チャレンジの50年 ~ 写真やエピソードで語るHondaの50年史 」から抜粋、簡潔にまとめて紹介している。

 

 

[藤澤氏の功績について](原文ママ)

 

1.藤澤武夫と本田宗一郎

 

今から75年前、1948年9月24日に本田技研工業株式会社は創立されました。その翌年、本格的オートバイのドリームD型が完成した1949年8月に、藤澤武夫は本田宗一郎と出会いました。藤澤武夫は、本田宗一郎とビジネスに対する考えや将来の夢で意気投合し、同年10月に常務取締役としてHondaに入社しました。

 

本田宗一郎が、研究開発や生産といった技術領域に集中する一方、藤澤武夫は営業や財務、マーケティングといった事業領域を一手に担い、本田宗一郎と二人三脚でHondaを率いました。その後、2人のパートナーシップは、1973年3月に2人が揃って引退するまで、約25年間続きました。

 

藤澤武夫が亡くなった翌年の1989年、本田宗一郎は日本人として初めて米国自動車殿堂入りを果たしています。

 

・(ホンダ)語り継ぎたいこと 限りない夢、あふれる情熱 本田宗一郎と藤澤武夫、意気投合する / 1949

・(ホンダ)語り継ぎたいこと Hondaのチャレンジングスピリット 展開期に向けての爽やかなバトンタッチ

 

 

2.藤澤武夫の功績

 

ホンダ初の海外現地法人 アメリカン・ホンダモーターの設立

 

1959年6月、当時ホンダ専務取締役だった藤澤武夫は、ホンダ初の海外現地法人としてアメリカン・ホンダモーターを設立するという難しい決断をしました。当時の米国の二輪市場の規模はおよそ6万台に過ぎず、そのほとんどが大型モデルでした。一方、ホンダのラインアップは小型二輪車のみ。社内の他のメンバーは、欧州からの小型二輪車が既に使われていたアジアへの展開を勧めましたが、藤澤武夫は「自動車の国」である米国を目標と定めました。それは、当時のホンダにとってはとても難しい目標でしたが、藤澤武夫は、世界経済の中心である米国で成功するということは、世界で成功するということ。米国でヒットしないような商品は、世界に通用するような国際商品にはなり得ない、という考えを持っていました。

 

・(ホンダ)語り継ぎたいこと Hondaのチャレンジングスピリット アメリカン・ホンダ・モーター設立 / 1959

 

米国での二輪車販売開始時における自前のディーラー網の構築

 

藤澤武夫は、日本と米国で多くの革新的な販売とマーケティングの戦略を採用しました。その中のひとつが、米国での二輪車販売開始時のホンダ自前のディーラー網構築です。

 

ホンダの役員の中には、他の日本企業のアプローチに倣い、米国での販売を商社に委託するべきだという意見がありました。しかし藤澤武夫は、日本国内の二輪車の販売網づくりを手掛けてきた経験から、他者の力を借りて商売するのでは、先方の都合が優先されると、ホンダとして思うような商売ができなくなってしまうことを懸念していました。また、耐久消費財である二輪車は、売った後も、自ら責任を持ってアフターサービスを行わなければならないと考えていました。

 

こうした考えから、ホンダは二輪車販売の経験のない多くの小規模ディーラーと関係を築き、独自のディーラー網を作り上げることで、西海岸から全土にビジネスを拡大することに成功しました。1960年代半ばまでに、ホンダは米国で最量販二輪ブランドとなりました。

 

・(ホンダ)語り継ぎたいこと Hondaのチャレンジングスピリット アメリカン・ホンダ・モーター設立 / 1959(ページ2)

 

研究開発部門の分離・独立

 

1960年7月、藤澤武夫の発案により、本田技研工業株式会社の別会社として株式会社本田技術研究所を設立しました。藤澤武夫は2つの目的を持って、受け入れられなければ辞任する覚悟でこの分離・独立を考案しました。1つ目は、日々のビジネスの浮き沈みに左右されることなく、ホンダエンジニアには、新価値を創造する自由が与えられること。2つ目は、将来、本田宗一郎という天才的技術者に頼ることができなくなったときに、イノベーションを維持するホンダの研究開発能力を守ること。こうした考えに基づき新しく設立された本田技術研究所は、絶えなく先行研究に取り組み、積極的な技術革新を実現し、自動車産業や航空産業などの新しいビジネスに参入するとともに、現在に至るまでモビリティの研究と新価値創造に注力し続けています。

 

・(ホンダ)語り継ぎたいこと Hondaのチャレンジングスピリット 技術研究所の分離・独立 / 1960

 

 

■関連サイト(ホンダ)原点コミック

 

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坂上 賢治

NEXT MOBILITY&MOTOR CARS編集長。日刊自動車新聞を振り出しに自動車産業全域での取材活動を開始。同社の出版局へ移籍して以降は、コンシューマー向け媒体(発行45万部)を筆頭に、日本国内初の自動車環境ビジネス媒体・アフターマーケット事業の専門誌など多様な読者を対象とした創刊誌を手掛けた。独立後は、ビジネス戦略学やマーケティング分野で教鞭を執りつつ、自動車専門誌や一般誌の他、Web媒体などを介したジャーナリスト活動が30年半ば。2015年より自動車情報媒体のMOTOR CARS編集長、2017年より自動車ビジネス誌×WebメディアのNEXT MOBILITY 編集長。

松下次男

1975年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として国会担当を皮切りに自動車販売・部品産業など幅広く取材。その後、長野支局長、編集局総合デスク、自動車ビジネス誌MOBI21編集長、出版局長を経て2010年論説委員。2011年から特別編集委員。自動車産業を取り巻く経済展望、環境政策、自動運転等の次世代自動車技術を取材。2016年独立し自動車産業政策を中心に取材・執筆活動中。

間宮 潔

1975年日刊自動車新聞社入社。部品産業をはじめ、自動車販売など幅広く取材。また自動車リサイクル法成立時の電炉業界から解体現場までをルポ。その後、同社の広告営業、新聞販売、印刷部門を担当、2006年に中部支社長、2009年執行役員編集局長に就き、2013年から特別編集委員として輸送分野を担当。2018年春から独立、NEXT MOBILITY誌の編集顧問。

片山 雅美

日刊自動車新聞社で取材活動のスタートを切る。同紙記者を皮切りに社長室支社統括部長を経て、全石連発行の機関紙ぜんせきの取材記者としても活躍。自動車流通から交通インフラ、エネルギー分野に至る幅広い領域で実績を残す。2017年以降は、佃モビリティ総研を拠点に蓄積した取材人脈を糧に執筆活動を展開中。

中島みなみ

(中島南事務所/東京都文京区)1963年・愛知県生まれ。新聞、週刊誌、総合月刊誌記者(月刊文藝春秋)を経て独立。規制改革や行政システムを視点とした社会問題を取材テーマとするジャーナリスト。

山田清志

経済誌「財界」で自動車、エネルギー、化学、紙パルプ産業の専任記者を皮切りに報道分野に進出。2000年からは産業界・官界・財界での豊富な人脈を基に経済ジャーナリストとして国内外の経済誌で執筆。近年はビジネス誌、オピニオン誌、経済団体誌、Web媒体等、多様な産業を股に掛けて活動中。

佃 義夫

1970年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として自動車全分野を網羅して担当。2000年出版局長として「Mobi21」誌を創刊。取締役、常務、専務主筆・編集局長、代表取締役社長を歴任。2014年に独立し、佃モビリティ総研を開設。自動車関連著書に「トヨタの野望、日産の決断」(ダイヤモンド社)など。執筆活動に加え講演活動も。

熊澤啓三

株式会社アーサメジャープロ エグゼクティブコンサルタント。PR/危機管理コミュニケーションコンサルタント、メディアトレーナー。自動車業界他の大手企業をクライアントに持つ。日産自動車、グローバルPR会社のフライシュマン・ヒラード・ジャパン、エデルマン・ジャパンを経て、2010年にアーサメジャープロを創業。東京大学理学部卒。

福田 俊之

1952年東京生まれ。産業専門紙記者、経済誌編集長を経て、99年に独立。自動車業界を中心に取材、執筆活動中。著書に「最強トヨタの自己改革」(角川書店)、共著に「トヨタ式仕事の教科書」(プレジデント社)、「スズキパワー現場のものづくり」(講談社ピーシー)など。