独フォルクスワーゲンAGは欧州中央時の1月15日、1982年~1992年迄、同社取締役会会長を務めたカール ホルスト ハーン博士(96歳/1月14日)が独ニーダーザクセン州ウォルフスブルグで逝去した事を公表した。
現在、フォルクスワーゲンAGで取締役会会長を務めるオリバー ブルーメ氏は「カール・ハーン氏は、先見の明を持っていただけでなく、素晴らしい人格者でもありました。
通算40年のVW在籍中、当社が歩むべき道筋を定め、今日の会社の成功の基礎を築き、米国ではビートルをVWブランドのアイコンに育て上げただけでなく、アウディのブランド価値向上にも尽力。
取締役会会長として、VWを国際的なブランド企業へ発展させ、中国市場への参入にあたって戦略的ビジョンを確立。
更にドイツの再統一後は、強いリーダーシップでニーダーザクセン州を自動車産業に於ける最先端の地に再生。VWとウォルフスブルグは、カール・ハーン氏に多大な恩義を負っており、ここに謹んで哀悼の意を表します。
また今後もカール・ハーン氏は、VWファミリーの一員であり続けます」と敬意を表した。
そんなカール ホルスト ハーン氏は、1926年7月1日にケムニッツでカトリックの家系に生まれた。自動車産業に携わっていた父親は、DKWが世界最大のモーターサイクルメーカーへと発展する事に貢献。1932年にはアウトウニオンの共同設立者の1人となっている。
そうした中でハーン氏は第二次世界大戦を生き延び、戦後はドイツ、スイス、イギリスで経済学を自身のものとしフランスで政治学を学んだ。1952年にはベルンで博士号を取得している。
1954年に28歳となったハーン氏は、当時のフォルクスワーゲンヴェルク(Volkswagenwerk)GmbHに入社。ゼネラルマネージャーのハインリッヒノードホフのアシスタントになっている。
その後ハーン氏は1959年に米国に派遣され、現在のフォルクスワーゲン米国法人の基礎を敷いている。具体的には、販売組織を確立させ独自の広告戦略により、米国市場でフォルクスワーゲンビートルの販売台数を65万台以上に伸ばした。
この米国に於ける成功により、ハーン氏は1964年(38歳)にウォルフスブルグのフォルクスワーゲン取締役会のメンバーとなり、そこでグローバルセールス責任者に就任した。
同年、フォルクスワーゲンはダイムラーベンツからDKWアウトウニオン(現アウディ ブランド)を買収。1967年にアウトウニオンを独立した販売組織を持つアウディブランドに育て上げた。
1972年に最高経営責任者(CEO)としてコンチネンタルAGに入社した後、1982年にウォルフスブルグの地に戻り、フォルクスワーゲンAGの取締役会長に就任した。
会長就任後まもなく、ハーン氏が率いるVWはスペインのメーカーであるセアトと独占的な協力関係を締結。
その結果、「Polo(ポロ)」と「Passat(パサート)」の生産をスペインに移転させ、ウォルフスブルグで「Golf(ゴルフ)」の生産台数を拡大。これにより収益性が回復。欧州当地での主導的な立場に戻る道が開かれた。
VWは、その後の1986年にセアトを買収して高収益企業としての立ち位置を確立。数年後にチェコのシュコダを自社グループに迎え入れ、共産主義が崩壊した後の中央ヨーロッパ市場でマーケットリーダーの地位を引き継ぐ事にも成功した。
これらの活動で欧州の発展にも貢献したハーン氏は、その後も一貫したグローバル化戦略を追求。中国市場への進出では1983年に上海で「Santana(サンタナ)」の試験生産を開始している。
更に翌年、VWは中国政府との合弁事業契約に署名。上海で自動車工場の起工式を開催。1991年には長春の中国第一汽車集団(FAW)と2番目の合弁事業を稼働させた事を契機に、傘下のアウディブランドを中国市場に於けるプレミアムメーカーに押し上げた。
翌1992年末にハーン氏は、取締役会会長の職を元アウディCEOのフェルディナンド ピエヒ氏に譲り、以後1997年6月まで監査役会のメンバーとしての職務を全うした。