NEXT MOBILITY

MENU

2023年1月16日【企業・経営】

VW元会長のカール・ハーン氏が逝去

坂上 賢治

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォルクスワーゲン・ロゴ

独フォルクスワーゲンAGは欧州中央時の1月15日、1982年~1992年迄、同社取締役会会長を務めたカール ホルスト ハーン博士(96歳/1月14日)が独ニーダーザクセン州ウォルフスブルグで逝去した事を公表した。

 

現在、フォルクスワーゲンAGで取締役会会長を務めるオリバー ブルーメ氏は「カール・ハーン氏は、先見の明を持っていただけでなく、素晴らしい人格者でもありました。

 

通算40年のVW在籍中、当社が歩むべき道筋を定め、今日の会社の成功の基礎を築き、米国ではビートルをVWブランドのアイコンに育て上げただけでなく、アウディのブランド価値向上にも尽力。

 

取締役会会長として、VWを国際的なブランド企業へ発展させ、中国市場への参入にあたって戦略的ビジョンを確立。

 

更にドイツの再統一後は、強いリーダーシップでニーダーザクセン州を自動車産業に於ける最先端の地に再生。VWとウォルフスブルグは、カール・ハーン氏に多大な恩義を負っており、ここに謹んで哀悼の意を表します。

 

また今後もカール・ハーン氏は、VWファミリーの一員であり続けます」と敬意を表した。

 

そんなカール ホルスト ハーン氏は、1926年7月1日にケムニッツでカトリックの家系に生まれた。自動車産業に携わっていた父親は、DKWが世界最大のモーターサイクルメーカーへと発展する事に貢献。1932年にはアウトウニオンの共同設立者の1人となっている。

 

そうした中でハーン氏は第二次世界大戦を生き延び、戦後はドイツ、スイス、イギリスで経済学を自身のものとしフランスで政治学を学んだ。1952年にはベルンで博士号を取得している。

 

1954年に28歳となったハーン氏は、当時のフォルクスワーゲンヴェルク(Volkswagenwerk)GmbHに入社。ゼネラルマネージャーのハインリッヒノードホフのアシスタントになっている。

 

その後ハーン氏は1959年に米国に派遣され、現在のフォルクスワーゲン米国法人の基礎を敷いている。具体的には、販売組織を確立させ独自の広告戦略により、米国市場でフォルクスワーゲンビートルの販売台数を65万台以上に伸ばした。

 

この米国に於ける成功により、ハーン氏は1964年(38歳)にウォルフスブルグのフォルクスワーゲン取締役会のメンバーとなり、そこでグローバルセールス責任者に就任した。

 

同年、フォルクスワーゲンはダイムラーベンツからDKWアウトウニオン(現アウディ ブランド)を買収。1967年にアウトウニオンを独立した販売組織を持つアウディブランドに育て上げた。

 

1972年に最高経営責任者(CEO)としてコンチネンタルAGに入社した後、1982年にウォルフスブルグの地に戻り、フォルクスワーゲンAGの取締役会長に就任した。

 

会長就任後まもなく、ハーン氏が率いるVWはスペインのメーカーであるセアトと独占的な協力関係を締結。

 

その結果、「Polo(ポロ)」と「Passat(パサート)」の生産をスペインに移転させ、ウォルフスブルグで「Golf(ゴルフ)」の生産台数を拡大。これにより収益性が回復。欧州当地での主導的な立場に戻る道が開かれた。

 

VWは、その後の1986年にセアトを買収して高収益企業としての立ち位置を確立。数年後にチェコのシュコダを自社グループに迎え入れ、共産主義が崩壊した後の中央ヨーロッパ市場でマーケットリーダーの地位を引き継ぐ事にも成功した。

 

これらの活動で欧州の発展にも貢献したハーン氏は、その後も一貫したグローバル化戦略を追求。中国市場への進出では1983年に上海で「Santana(サンタナ)」の試験生産を開始している。

 

更に翌年、VWは中国政府との合弁事業契約に署名。上海で自動車工場の起工式を開催。1991年には長春の中国第一汽車集団(FAW)と2番目の合弁事業を稼働させた事を契機に、傘下のアウディブランドを中国市場に於けるプレミアムメーカーに押し上げた。

 

翌1992年末にハーン氏は、取締役会会長の職を元アウディCEOのフェルディナンド ピエヒ氏に譲り、以後1997年6月まで監査役会のメンバーとしての職務を全うした。

CLOSE

坂上 賢治

NEXT MOBILITY&MOTOR CARS編集長。日刊自動車新聞を振り出しに自動車産業全域での取材活動を開始。同社の出版局へ移籍して以降は、コンシューマー向け媒体(発行45万部)を筆頭に、日本国内初の自動車環境ビジネス媒体・アフターマーケット事業の専門誌など多様な読者を対象とした創刊誌を手掛けた。独立後は、ビジネス戦略学やマーケティング分野で教鞭を執りつつ、自動車専門誌や一般誌の他、Web媒体などを介したジャーナリスト活動が30年半ば。2015年より自動車情報媒体のMOTOR CARS編集長、2017年より自動車ビジネス誌×WebメディアのNEXT MOBILITY 編集長。

松下次男

1975年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として国会担当を皮切りに自動車販売・部品産業など幅広く取材。その後、長野支局長、編集局総合デスク、自動車ビジネス誌MOBI21編集長、出版局長を経て2010年論説委員。2011年から特別編集委員。自動車産業を取り巻く経済展望、環境政策、自動運転等の次世代自動車技術を取材。2016年独立し自動車産業政策を中心に取材・執筆活動中。

間宮 潔

1975年日刊自動車新聞社入社。部品産業をはじめ、自動車販売など幅広く取材。また自動車リサイクル法成立時の電炉業界から解体現場までをルポ。その後、同社の広告営業、新聞販売、印刷部門を担当、2006年に中部支社長、2009年執行役員編集局長に就き、2013年から特別編集委員として輸送分野を担当。2018年春から独立、NEXT MOBILITY誌の編集顧問。

片山 雅美

日刊自動車新聞社で取材活動のスタートを切る。同紙記者を皮切りに社長室支社統括部長を経て、全石連発行の機関紙ぜんせきの取材記者としても活躍。自動車流通から交通インフラ、エネルギー分野に至る幅広い領域で実績を残す。2017年以降は、佃モビリティ総研を拠点に蓄積した取材人脈を糧に執筆活動を展開中。

中島みなみ

(中島南事務所/東京都文京区)1963年・愛知県生まれ。新聞、週刊誌、総合月刊誌記者(月刊文藝春秋)を経て独立。規制改革や行政システムを視点とした社会問題を取材テーマとするジャーナリスト。

山田清志

経済誌「財界」で自動車、エネルギー、化学、紙パルプ産業の専任記者を皮切りに報道分野に進出。2000年からは産業界・官界・財界での豊富な人脈を基に経済ジャーナリストとして国内外の経済誌で執筆。近年はビジネス誌、オピニオン誌、経済団体誌、Web媒体等、多様な産業を股に掛けて活動中。

佃 義夫

1970年日刊自動車新聞社入社。編集局記者として自動車全分野を網羅して担当。2000年出版局長として「Mobi21」誌を創刊。取締役、常務、専務主筆・編集局長、代表取締役社長を歴任。2014年に独立し、佃モビリティ総研を開設。自動車関連著書に「トヨタの野望、日産の決断」(ダイヤモンド社)など。執筆活動に加え講演活動も。

熊澤啓三

株式会社アーサメジャープロ エグゼクティブコンサルタント。PR/危機管理コミュニケーションコンサルタント、メディアトレーナー。自動車業界他の大手企業をクライアントに持つ。日産自動車、グローバルPR会社のフライシュマン・ヒラード・ジャパン、エデルマン・ジャパンを経て、2010年にアーサメジャープロを創業。東京大学理学部卒。

福田 俊之

1952年東京生まれ。産業専門紙記者、経済誌編集長を経て、99年に独立。自動車業界を中心に取材、執筆活動中。著書に「最強トヨタの自己改革」(角川書店)、共著に「トヨタ式仕事の教科書」(プレジデント社)、「スズキパワー現場のものづくり」(講談社ピーシー)など。