そこで4年後の1950(昭和25)年に事業再建を果たすべく、販売資金と製造資金を区別する経営体制を目指して同年2月に自動車販売会社の設立構想を宣言。
丁度、前年10月にGHQ(連合国軍総司令部)が乗用車の生産制限を解除し、さらに翌11月からは自動車販売の割当配給制も廃止されて自由販売制になったことで、トヨタは販売金融(月賦販売の確立)と、販売力強化を求めて当時のトヨタ自動車工業(以下、トヨタ自工)傘下の販売部門を分離独立させ、同年4月3日にトヨタ自販を設立した。
その後トヨタの車両生産台数は、1955年に月産3000台体制に、翌1956年10~12月期に月産台数で5000台超になるなど、大型トラックの販売停滞をよそに乗用車市場が伸張。
この乗用車市場の急拡大を背景に1953年3月14日に、「東京トヨペット」をトヨタ自販の直営店として立ち上げる。この際、既存店舗網のトヨタ店は、この新たな直営店が販売上の既得権を脅かすとして反発。そこでトヨタ販社が東京トヨペットへ資本参加(資本金の20%)することで2チャンネル体制の実現に漕ぎ着けた。
さらに1957年3月にトヨタは、ディーゼル・エンジン搭載の5トン積みトラックを販売するための「トヨタディーゼル店」を立ち上げる。しかし生憎マーケットが小型トラック需要に大きく傾倒するなか、この新店舗を救う策として大衆車「パブリカ」の併売に乗り出す。
これがトヨタディーゼル店から改名した「パブリカ店」(後の1969年に「カローラ店」に名称変更)誕生につながった。結果、初代「コロナ」の発売時期にあたる1957年7月時点のトヨタ傘下の販売店舗数は、トヨタ店が49社、トヨペット店が51社、トヨタディーゼル店が9社の計109社となっていた。
その後、仮に一部にマイナス点があったとしても、その他に魅力が溢れていればマーケットを占拠できる中大型車市場とは違い、全てに80点以上の成績を獲得していないと小型車市場では勝ち残れないとするコンセプトで生まれた「カローラ」を発売。